三谷晶子
「弾ける恋と往復びんた」2012年3月28日
illustration by Nakao ☆ Teppei
見覚えのある横顔を見て、誰かと思ったら、昔、往復びんたをした女だった。
もう五年も前になる。私と女は、男の部屋で鉢合わせた。私は、女の顔に往復びんたを食らわせてその場を去った。翌朝の二日酔いの酷さと、最低の気分を裏切るかのように青く晴れた空はいまだによく覚えている。
早い時間のバーで、薄暗い照明にまぎれるように座る客は私と女だけだった。しばらくすると、四角い台座に収まった逆円錐形のグラスが出てきた。横を見ると、女も同じものを頼んでいた。あの男に教えてもらったのだろうか。そう思った時に、女がこちらを見た。
その瞬間、女が吹き出した。
「なんなんですか、笑っちゃう。同じ店で同じ日に同じビール飲んでるなんて」
そう言って、カウンターに突っ伏すようにして笑い出した。私は、憮然とした気分でビールの三分の一を飲み干した。
「ねぇ、ねぇ。あれからどうしました?」
女は開き直ったのか、身を乗り出してそう聞いてきた。
「どうなるも何も、もう会ってもいない。顔も覚えていないよ」
「私も。なんであんな男を好きになったんだろう」
なんであんな男を好きになったんだろう。同じようなことを、私もあれから何度も思った。頭の中が擦り切れるような感覚になるまで考えたけれど、答えは結局、出なかった。
それから、私達は無言のまま、酒を飲んだ。あの男が好きだった、と思った。あの男が教えてくれた、このビールが美味しいのと同じように、理由なく。
「知ってる? グラスを空にしないと新しいものは注げないんだよ」
「いいこと言いますね。じゃあ、空にしたから次のものを頼まないと」
女は笑って、バーテンダーに合図をした。
グラスをいくつか空けて、私達は店を出た。帰り道には、月が出ていた。今夜飲んだビールのような金色の月だった。
「空にしたグラスは綺麗になるから、そうしたらまた新しく注げるんですよね」
女が、月を見上げながら、そう言った。
「そうだよ。空にして、次をなみなみ注ごうよ」
私は、酔いで火照った顔にかかる髪の毛をかき上げ、そう返した。
女は小さく笑って、「そうですよね」と頷いた。
私達は、グラスを空にし、綺麗にする。そして、また、なみなみ注ぐ。
弾けるような泡に似た、びんたの痛みや、胸浮き立つ恋を。