Short Storyショートーストーリー

村田沙耶香
「悪いことに乾杯」2012年9月3日

村田沙耶香「悪いことに乾杯」
illustration by Nakao ☆ Teppei

「何に乾杯しよっか」

薄暗いカフェバーの窓際で、運ばれてきたビールを手にしながら美穂が言った。

「ね、今日は悪いことに乾杯しない?」

遥の提案に、美穂が目を丸くした。「悪いこと?」「そう。いいことにばっかり乾杯してても、つまんないじゃない」ビールグラスの水滴を、マニキュアの塗られた指先で辿りながら遥が言う。「今朝ね、目尻に皺ができたの」「皺?」「あたし、美容おたくじゃない? 毎日マッサージして、一万円のアイクリーム使って、目元には死ぬほど気を付けてたんだよね。でも今朝、ついにできた。ほら、これ」 ピアスを揺らしながら、暗がりのなかで遥が顔を近づけてくる。そこにはたしかに、やわらかい肌に絡む、うっすらとした一本の皺があった。「うわあー最悪って思ったんだけどさ、どこかで、なかなかいいじゃん、っていう気持ちもあるんだよね。肌色の華奢なチェーンみたい。できたてのほやほやのせいか、なんだかあどけない皺って感じがするんだよね。どう?」お気に入りのアクセサリーを見せるような仕草に、「うんそれ、けっこういい」と美穂が笑って頷いた。

「美穂は? 何か悪いことある?」

美穂は肩をすくめた。「じゃ、私は、失恋かな」「失恋?」「私、6年も干物女やってたでしょ。でも、いつもお昼に行くコーヒーショップの店員さんに、久しぶりに、そんな気持ちになったのね。手が大きくて、指が不器用で、クリームがいつも歪んでるの。で、この前会社帰りに待ち伏せしてさ。『好きです』って言ったの」「嘘」遥はのけぞった。「名前も知らない人にそんなこと言ったの、小四のバレンタインデー以来だな。小学生みたいなことしてごめんなさい、って言ったら笑ってた。その子、彼女がいるんだって。でもありがとう、って言ってた」美穂は目を細めた。

その時店の扉が開き、外から冷気が漂ってきた。美穂と遥は顔を見合わせて微笑んだ。

「じゃ、生まれて初めての目尻の皺に」

「40歳の女の、小学生みたいな失恋に」

思わず吹き出しながら、「乾杯」とグラスをぶつけると、冷えた液体は外の光を飲み込んで、ゆっくりと二人の手の中で揺れた。

Profile

村田沙耶香(むらたさやか)・小説家
1979年千葉県生まれ。2003年に「授乳」で第46回群像新人文学賞・優秀作を受賞してデビュー。2009年、『ギンイロノウタ』(新潮社刊)で第31回野間文芸新人賞受賞。著書に『マウス』『星が吸う水』(いずれも講談社刊)、『ハコブネ』(集英社刊)『タダイマトビラ』(新潮社刊)などがある。最新作は、『しろいろの街の、その骨の体温の』(朝日新聞出版刊)。

ナカオ☆テッペイ(なかおてっぺい)・イラストレーター
1975年大阪生まれ。大阪芸術大学卒業後、広告制作会社に勤務。セツ・モードセミナー卒業後、フリーランスのイラストレーター活動開始

TOP