水庭れん
Sの杖2024年6月28日
illustration by Kaori Forward
PMFRMS、ってどういう意味ですか。わたしがそう尋ねると、顔なじみのマスターがグラスを拭く手を止めた。眉を寄せ、わたしの手元の木の枝に目をやる。「……それは?」
「魔法の杖です」と、枝を軽く振ってみせる。「昔友達にもらったもので、今日物置を整理していたら出てきました。わたし、子どもの頃は魔法使いになりたかったんです」
久々にこのお粗末な杖を目にした瞬間、錆びついていた記憶の引き出しが音を立てて開いた。
「ハリー・ポッター」に夢中だった小学生の頃。魔法学校の四つの寮に生徒を振り分ける組分け診断という遊びを仲間内で行って、わたしだけが「スリザリン」になった。いじわるなキャラクターや憎まれ役も多く所属する寮のため、周りからひどくからかわれた苦い思い出がある。
マスターが空いたロックグラスを下げる。「整理って、断捨離でも?」
「いえ、実はもうすぐこの街を離れるんです。三十まで暮らした実家をようやく出ます」
この杖は、誰にもらったんだっけ。肝心の相手の顔がどうしても思い出せなかった。
わたしはマスターに杖を差し出した。「ほら、ここです。この英語の意味がわからなくて」
杖の柄の部分には、謎のアルファベットが彫られている。『PM FRM S』——署名だろうか?
しかし、マスターはそれを見るなりニコッと微笑んだ。「門出のお祝いに一杯ご馳走しましょう」
戸惑うわたしの目の前に、マスターはへんてこな逆三角形のグラスを置いた。側面がぐるりと文字で埋め尽くされている——「あ」と声が出た。これ、ルーン文字だ。ローマ字と似て非なる、古代ヨーロッパの魔術文字。
もしかして。もう一度杖に視線を落とす。「P」に似たルーンは実は「W」で、「M」そっくりのルーンは「E」……ハッと息が漏れる。『PM FRM S』をアルファベットに直すと——『We are S』となる。
思い出した。この杖は、ある仮初めのクラスメイトがくれたものだ。親の事情で海外からやってきて、わずか数か月でまた転校してしまった子。ろくに言葉も交わせなかったあの子から、別れ際わたしはこの魔法の杖を手渡されたのだった。最後の『S』はきっと——Slytherin(スリザリン)。あの子も、同じ寮にいたのだ。
マスターが鈍く光る液体を逆三角へ注ぎ入れる。「そういえば、つい先日も魔法使いに憧れていたというお客様がいらっしゃいました。長く海外にいて、最近この街に戻ってきたとか」
グラスにビールが満ちた時。カランコロン、とドアの開く音が店内に鳴り響いた。「おや、噂をすれば」