Short Storyショートーストーリー

角田光代
「いつか旅立つときに」2016年9月8日

角田光代「いつか旅立つときに」
illustration by Kayako Kamiya

ルーン文字のことを話したはずなのに、夫は覚えていないと言う。無理もない。まだ私たちが恋人だったころ、この先いっしょにいるのかいないのか、決めてもいなかったころの話だから。

ベビーベッドで眠る野々花を起こさないように、私たちはひそひそ声で会話をする。ほら、ビールを注ぐとグラスに文字が浮かび上がるの。それがルーン文字っていう世界最古の文字で、ひとつひとつ文字ごとに意味があるから、占いもできる。私そのビールにはまって、それを出すお店をさがしてあなたを連れていったじゃない。覚えてない? 覚えてないなあ。そうだ、あなたがいつものように遅刻して、時間つぶしに入ったカフェではじめて飲んだんだ、そのビール。遅刻なんてしたっけ、おれ。なんにも覚えていないんだ? あんまり時間にルーズだから、別れようかと思っていたんだよ。なんだその話、急にこわい方に向かうなよ。それで、その古代文字がなんだって?

ビールグラスに浮かび上がる不思議な文字に興味を持って、その後、私はその文字と文字の持つ意味について勉強した。四カ月前、生まれたばかりの野々花の右手を開いてみたとき、だからすぐ「Eのルーンだ」と思った。あのグラスにも刻まれていた文字。Mに似た字で、意味は、やさしさ、旅。直感的に私は思ったのだ、それがこの子のキーワードだ。この子の人生はやさしさに満ちて、そしていつか遠くへと旅立っていく。

そんな話をすると、馬鹿馬鹿しいと笑うかと思ったが、ほんと? おれも見たい、と夫は言う。私たちは静かにベビーベッドに移動して、眠る野々花の右手をそっと開く。えっ、どこどこ、どれがM? 夫が言うと、野々花が眉間に皺を寄せ、ちいさく声を出す。私たちははじかれたようにベッドから離れ、顔を見合わせくちびるに人差し指をあてる。旅立っていくのか、いつか。夫が言う。ひとりで立つこともできない赤ちゃんが、いつか、遠くへいくのかと思うと私も泣きそうになる。そのときせめて、泣かずに笑って送り出す親になりたい。母になりたての私はつぶやく。ビールで乾杯して祝ってやれる親になりたい。父になりたての夫はつぶやく。まだずっと先。ずっと先のことだけれど、旅立ちはもうはじまっている。

Profile

角田光代(かくたみつよ)・作家
1967(昭和42)年神奈川県生れ。魚座。早稲田大学第一文学部卒業。1990(平成2)年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。1996年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、2003年『空中庭園』で婦人公論文芸賞、2005年『対岸の彼女』で直木賞、2006年「ロック母」で川端康成文学賞、2007年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞、2011年『ツリーハウス』で伊藤整文学賞、2012年『紙の月』で柴田錬三郎賞、『かなたの子』で泉鏡花文学賞、2014年『私のなかの彼女』で河合隼雄物語賞を受賞。著書に『真昼の花』『キッドナップ・ツアー』『人生ベストテン』『おやすみ、こわい夢を見ないように』『ドラママチ』『三月の招待状』『森に眠る魚』『くまちゃん』『空の拳』『平凡』など多数。

www.shinchosha.co.jp/writer/1137

かみやかやこ・イラストレーター
1987年生まれ 横浜そだち
多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業、その後、広告制作会社にてデザイナーをしながらイラストを描く。
2015年よりフリーランス。広告、書籍、webなどでイラストレーションを手がける。個展、グループ展など、展覧会でも作品を発表。

kayako-kamiya.tumblr.com/about

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