武田さとみ
「おいでの恋」2014年9月1日
illustration by Momoko Iino
「『おいで』っていう名前なんだ」
そう言って彼が見せてきたスマートフォンの画面には、ふてぶてしそうな雑種猫が写っている。
「変わった名前ね」
「『おいで、おいで』って呼んでみたくて。楽しいかなって」
その日、バーはめずらしく混んでいた。あちらこちらでグラスの触れ合う音。
「齋藤さんは、麻里子だよね」
「好きじゃないけどね」ぶっきらぼうな私の返答に、彼が少し驚いた顔をする。
「2歳上に姉がいて、麻衣子っていうの。麻衣子と麻里子。仲良し姉妹って感じだけど、
私はこの名前好きじゃない」
「どうして?」
答えるかわりにグラスについた水滴を指にとり、私はカウンターにまいこ、と書いた。
「姉の名前、ひらがなで書くとこうなるでしょ。」彼はうなずく。
「『まいこ』の『い』を伸ばすと…」
「まりこだ。」影の落ちたカウンターで、彼の目がわずかに輝く。
「そう。子どものころはほとんどが姉のおさがりで、バックとか服のタグに書く名前も、
『い』の下を書き足すだけだったの。それも油性のペンで。名前までお下がりみたいで、すごく嫌だった。」
真似して彼も自分のグラスから水滴を取り、まりことまいこの間を人差し指で何往復かしたあと、
「ほんとだ。キミのご両親、天才だね」と唸った。
ピントのずれた反応に呆れていると「おいでなんて名前つけているようじゃ、オレ、まだまだだな」
とうなだれ始める。「なにがよ」苛立ちが思わず声に出る。
すると彼は、男としてさ、とため息をつき、おもむろにこちらに向き直って、
「実はオレ、今日齋藤さんに告白しようと思ってたんだ。ヘンだろ、急に飲みましょうなんて。
でも、そんな素敵な名前をつけるご両親の娘さんじゃ、オレなんかふさわし」
「あのさ」彼の言葉を遮って私は続けた。「そういう告白ってズルいわよ」
沈黙が流れる。今日はただ、適当に酔っぱらえればよかったのに。
彼が私を抱き寄せるところを想像してみる。昼下がり。彼の部屋で。彼は私のことをなんと呼ぶだろう。
「おいで、麻里子」すると、近くで寝そべっていたおいでが、ピクっと耳を動かす。こちらを見つめ、自分が呼ばれたのではないことに気がついて、またゆっくりと体を床に預ける──。
「斎藤さん?」彼の声に、我にかえる。カウンターに書いた名前は、じんわりと滲み始めていた。