Short Storyショートーストーリー

島本理生
「あなたを待っていた」2010年6月28日

波音だけが響く食堂内を、日焼けした店主が行き来している。卓上に並んだ島唐辛子の小瓶や醤油差しは、指紋と油で曇っていた。

グラスに口を付けると、冷えたビールは苦味が少なく軽やかで、それでいて、非日常をまとった豊かな香りがした。

酔いがまわると、旅先の緊張で強ばっていた体がゆるんでいくのを感じた。

昨日、羽田空港から電話をかけたら、別居中の夫は怒ったように、言った。

「おまえみたいに自由じゃないんだ。平日に行けるわけがないだろ」

電話を切った後、私は和也の番号を押した。

同じフリーの編集をしている和也は、沖縄かあ、と羨ましそうな声を出した。行けるようにがんばってみようかな、とも。

店主がやって来て、お皿をどんと置いた。

水滴のついた真っ白な島ラッキョウに、肉味噌をつけて囓ると、かすかに土の気配がした。甘辛い肉味噌が喉を渇かし、私はあっという間に空になったグラスを見つめた。

三年前に夫が浮気しなかったら。和也と付き合うことも、別居することもなかったろうか、と考える。復讐心がなかったとは言えないけれど、夫と別れたらちゃんとしたいほどには本気で、たぶんそうなるだろう、とも。

そのとき、ドアの開く音がした。

振り返った私は、目を見張った。

ポロシャツに大量の汗が滲んだ夫は、やっぱり腹を立てているみたいに、ずんずん近付いてきた。

私は、どうして、と尋ねた。

夫は、しばしの沈黙の後、言った。

「結婚してから、もう長いこと、俺の自由を、おまえのために使ってなかった」

私はなにも答えられなかった。

ありがとう、と、ごめんなさい、が、同時に込み上げて喉が詰まってしまったから。

私はうつむいたまま、厨房に向けて片手をあげた。二人分のビールを頼むために。

Profile

島本理生(しまもとりお)・作家
1983年東京都生まれ。「シルエット」で第44回群像新人文学賞の優秀作を受賞しデビュー。
『リトル・バイ・リトル』(講談社)で第25回野間文芸新人賞を受賞。『ナラタージュ』(角川書店)が「この恋愛小説がすごい! 2006年版」(宝島社)にて、一位に選ばれる。その他の著書に『生まれる森』(講談社)『クローバー』(角川書店)『君が降る日』(幻冬舎)など多数。
近刊に『真綿荘の住人たち』(文藝春秋)『あられもない祈り』(河出書房新社)がある。

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