中村航
「状況」2005年12月1日
ビールという飲み物は状況の飲み物だと思う。
そのときの気温や湿度や風の吹きぐあい。時刻や場所や心の中のBGM。一緒に居る人や、未来の展望や予感のようなもの。取りあえず、なのか、そうでないのか。そして何よりもビールを飲む前に成し遂げた何ごとか。それらの濃淡によって、素晴らしく美味しかったりそうでもなかったりするんだと思う(でもだいたいは美味い)。
今、僕の目の前にいるおっさんが熱弁を奮っている。
何でもおっさんたちは、ガージェリーというビールのために会社を作ったらしい。スタウトとか、エールとか、アイルランドやイギリスの国民的なビールと同じタイプのビールらしい。
五種類のモルトを配合し、日本ではあまり馴染みのない上面発酵用の酵母を使って発酵させる。長期熟成したあと、酵母が生きたまま樽詰めし、そのままチルド便で店まで発送する。ガージェリーというのは、ディケンズの小説に出てくる頑固な鍛冶屋に由来するらしい。今はまだ東京でしか飲めない。
へえー、と思いながら、僕はそれを聞いていた。話の半分は忘れてしまったけど、とにかくそんなビールが作られたのだ。
最後に角型のリュトンに注がれて、そのビールが出てきた。正しく注がれたビールの泡と液体の比率は、僕らの心に調和と安心をもたらす。
では、と飲んでみると確かに美味かった。味はそのおっさんと同じくらい雄弁であった。
しゃべり終えたおっさんは、鍛冶屋の名前をもつそのビールを目を細めて飲んでいる。
ビールという飲み物は状況の飲み物だ。美味いビールを作ることに情熱を燃やし、それを成し遂げたあとに飲むビールは最高に美味いのだろうか……? いや、そりゃ美味いんだろうな、と思う。