小野寺史宜
「何かを整える」2009年6月28日
illustration by Tomoko Okada
「とりあえずビール」と言ったことはない。とりあえずも何も、ずっとビールだから。
「夏はビールに限るよ」と言ったこともない。夏はも何も、冬だってビールだから。
もちろん、ジョッキでガブガブいくこともある。そんなふうに飲むビールをうまいと思ったりもする。
ただ、月に一度は、一人でこのバーを訪れる。でもって、きちんとしたグラスで、きちんと時間をかけて、ビールを飲む。
すると、稀に、霧が晴れることがある。意識にかかっていた靄のようなものが、その一瞬だけ、きれいに取り払われるのだ。
それで何がどうなるわけではない。マイナスであったものがゼロになったりはしないし、ゼロであったものがプラスになったりもしない。でもその逆もない。
二年前、付き合っていた彼女に、こんなことを言われた。
「ねぇ、いったい何のために一人で飲みにいくのよ」
わたしと行けばいいじゃない、という意味ではない。ほかの女と行ってるんじゃない? という意味でもない。一人で飲みにいくという行為に、彼女は意義を見出せなかったのだ。
そうする理由について考えたことがなかったので、僕は考えてみた。
「生活のなかの何かを整えるためだよ」
そんな言葉が、口からぽろりと出た。
その答えは気に入った。彼女は気に入らなかったようだが、僕自身は気に入った。
そのことで、彼女は僕という人間を知り、僕は彼女という人間を知った。それまでよりは、少しだけ深く。
その後二週間で、僕らはあっさりと別れた。
彼女がどうしてるかは、知らない。
僕はといえば、こうして今も、ビールのグラスを傾けることで、生活のなかの何かを整えている。地下にあるこのバーで。夜空に浮かんでいるであろう半端に欠けた月の存在を、微かには感じながら。