吉野万理子
「女たちのおいしい夜」2008年7月28日
美奈、遅いよ。わたしは腕時計を指してアピールしたけど、彼女は全然気づかず、バッグを無造作に投げ出す。
「ねえ、聞いてよ。編集長ってば、あたしが進めてる特集のデザインに難癖つけてきて、ひどいんだよ!」
聞くよ。聞きますとも。でもまずはドリンクでしょ。
「この店にね、オススメのビールがあるんだ。美奈もそれでいい? オトナの味」
「オトナねー。編集長もさ、少しはオトナになれよって思うわけ。子供みたいにムキになって」
ビールが待てない美奈は、グラスの水をイッキ飲みする。「なんでオススメかっていうとね、名前がまず洒落てんの。ディケンズの『大いなる遺産』って小説知ってる? あの登場人物の名前からとったんだって。ガージェリー」
「編集長の存在自体、会社にとって、大いなる負債だね」
「ガラスの台に差した、ガラスの器で飲むの。底が平らじゃないグラスって、普通ありえないじゃない?」
「ありえない。上司としてありえない。え、何これ」
マスターが置いたグラスを見て、美奈は目を丸くしている。
「だから、これがガージェリー」
「何、ガージェリーって」
聞けよっ、人の話。付き合い長いから、あきらめてるけど。
「美奈って、食べ物は新鮮さがイノチっていっつも言ってるじゃない? 野菜でも肉でも。このビールも出来立てで、さっき届いたとこだって、マスターが言ってたよ。どう?」
わたしが聞くと、美奈はごくごくとビールを飲んで、それからニッと笑った。おいしいものを口に入れると、彼女は急に無口になる。そして素直になる。今みたいに。
この法則を編集長に教えてあげたいなぁ。そうしたら、部下の操縦がもっと楽になると思うのよね。