佐藤智加
「夜がくる前のしずかなひととき」2007年6月28日
知らぬ間に季節が過ぎていた。
捧げた気持ちは戻らない。
それでも、恋が終わったことを認識するのに、充分なだけの時間が経ったのだ。
ふと意識すれば花は散り、温く湿った風が街に降りて新しい季節の到来を告げている。
カウンター席に座って、新しいお気に入りを注文する。私は最近、酔うためじゃなく愉しむために、本当に美味しいものをゆっくり飲むことを覚えた。
グラス越しに眺めると、夕暮れの街が淡く青紫に煙っている。走り去る、揺れる、テールランプ。この空気がたまらなく好きだ。
「あなたの知らない私が、また一つ増えていくよ」これは無意識の声。
それでもいいの?と、聞きたいけれど聞けない。駄々をこねたって、私の知らない彼が増えていくのを、止められるわけじゃない。
失ったものはたった一つのはずなのに、自分でも驚くほど毎日が新しいものだらけになった。焦らないと言えば嘘になる。けれど、ぐっと背筋を伸ばしてわざとゆっくり、目の前のビールをもう一口。
いつか、何かを乗り越えるのに充分な時間が経った頃、彼とこの味を分かち合える日が来るだろうか?
過ぎた日々を一杯のビールで飲み干して、言葉もなく、ただ優しく笑い合えたら。過去を許し合うなんて大げさなものじゃなくて、さりげなく、お互いの人生を讃え合うような乾杯を。
いつかそんな日が来ますように。
私の知らないあなたの毎日が、できるだけ温かな幸福に満ちていますように。あなたの知らない私の世界が、もっと豊かに広がっていきますように。
心からそう願って、祈るように最後の一口を飲み干す。
外はもう薄闇。
私はまた少し、大人になる。