西川美和
「プール一杯分のビール」2006年9月28日
「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分のビールを飲み干し、『ジェイズ・バー』の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした。そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった。」(「風の歌を聴け」より)
14歳の頃、初めて手に取った村上春樹の小説。海辺の街に帰省した21歳の「僕」の夏の物語だった。ビールって、そんなにたくさん飲めるものなのか。大人ってそんなに退屈なものなのか。その頃私は、「退屈」というものを知らなかった。ビールはただ苦いだけの炭酸水だと思っていた。
「僕」の年齢に追いつく頃、私も一夏中にプール一杯分のビールを飲み干すような生活をしていた。でもそれは、もう「ハルキ・ムラカミ」に憧れていたからじゃなかった。何もかもをすっかり忘れて、知らない内に退屈になっていたのだ。しかも私が入り浸ることになったのは、波の音聴こえる、ジュークボックスのあるバーなんかではなく、学生と日雇い労働者とサラリーマンとがごちゃ混ぜに酔っ払って這い回る街にたたずむ下卑た居酒屋の、カラオケセット付きの日焼けした畳の座敷だった。心から陽気に酒があおられる時代はとうに崩壊していた。ただそういう時代の気分だけが亡霊のようにうろついていたのだ。ビールは、鬱屈しているのどちんこを刺激するものでしかなかった。一人になると虚しくて、一滴のアルコールも飲まなかった。
「ビールなんて、人生に必要なんだろうか?」そんなことをぼんやりと考え始めた頃、私は既に幾度か胃潰瘍の治療に専念した経験を持ち、プールはおろか、グラス一杯のビールを飲むのにも時間がかかるようになっていた。憧れたはずの「僕」は、気づいたら一回り近く年下の男の子だった。夢は知らない間に終わっていたようだ。人並みに退屈だったあの頃、何一つ見逃すまい、聞き逃すまい、と神経を尖らせていたはずなのに、自分が夢の只中にいることだけはわからなかった。夢とはしかし、そういうものかもしれない。夢だと気づけば、たちどころに覚めてしまう。もはやビールを飲むことに美学も幻想もなくなったが、その代わりグラスに一杯のビールは、苦い水でも刺激物でもなく、ただしみこむように美味くなった。かつて大人たちが嘆いていた通り、時間の過ぎ行くのは年々早くなるけれど、不思議にプール一杯分のビールをがぶがぶと飲み下していた時間よりも、小ぶりのグラス一杯をじわじわと飲んでいる時間、これだけはこちらの方がなんだかのんびりとしている。「僕」は果たして、今の私を「大人だな」と思ってくれるだろうか?それはわからない。けれど、一杯のビールを少しずつ、おいしく頂くことは、私にとって、もはやそんなに退屈ではない。