Short Storyショートーストーリー

ミヤケマイ
「天の時間 地の時間」2005年6月1日

青い薬か、赤い薬どちらかを選びなさい」と映画マトリックスの中で、未来の救世主たる主人公は迫られる、これを初めて見たとき私はルイスキャロルだと思った。あの有名なルイスキャロルの不思議の国のアリスにも、大きくなる薬と小さくなる薬が主人公に与えられる。どちらも自らの選択によってその後の人生が急展開するんだったなと、ぼんやり思いながら薄暗い階段を下へとゆっくり移動してゆく。

私にはいくつか行きつけとまではいかないが、好んで出没する場所がある。あえて決めているわけではないのだが、気が付くとみな似た店になっている。カウンターや厨房での仕事は徹底した職人技があり、うっすらとスタンダードジャズただよいホールには優しさと多少の自由きままさ(隙)のある店ばかりにどうも落ち着く、そしてなにより重要なのはみな薄暗い中降りてゆく階段があるということだ。

都心に住むことを余儀なくされている人間独特の消去法的選択で、現在都心にしては珍しい大きな緑地帯を眼下に見下ろすマンションというより折り詰めのようなモノに住んでいる、昼間は鉄とガラスの巨人群に囲まれた高層ビルで仕事をし、人生の大半を鳥のように上空で過ごしている。 仕事は消化すればするほど減るどころか、むしろ雨あとの筍のように次々と出てくる、ちょっと目を離せば雲突くような青竹の巨木になってしまい、薄暗い藪の中に立ちすくむことになる、そうなる前に片付けるのが肝心と思っている。たまに仕事が凪いでも、そのぶん今までないがしろにしていた雑用がとこからともなく這いだしてきて、結局手がいっぱいになる。

子供の頃早く親や学校から解放されたかった、大人になれば自由で楽になると思ってた。大人になって自由になったのだろうか、自由と新天地を求めて社会に出てみた、個人のしがらみは薄くなったが、そのぶん公人としてのしがらみが多くなり、自分の時間が削られていった、その自分の時間を取りかえすべくして、人生のパートナーというサポーターを投入してみた、プライベートな部分は厚くなりそれなりにバランスがとれ、目論見通りお皿は常に洗われていることになったが、仕事同様一人の家族がまた他の家族を増やしネズミ講のようにつきあいという名の行事が増えてゆく。どうも人は楽しようとしてしたことで、楽になるようにはなってないらしい、少なくとも自分の時間が増えたとは思えない。

そう思いながらテーブルの上のグラスの中で揺れる液体の甘美なリズムを目で追う。なんて素敵なリズムなのだろうと思う、これは自分時間の始まりの合図なのだ。もっと、もっと、あれも、これもと加速してゆく人生のスピードを元の生態リズムに戻すメトロノームなのだ。ここにはNYやホンコンの夜景を彷彿させるような無国籍な夜景は見えない、世界制覇の夢を反芻する必要がない。馴染んだ薄暗い階段を下りるとそこはピーターラビットのお家のような、安全でいごごちの良いほのかな土や木の湿度を感じる空間があるだけ、外の音や喧噪から遮断された巨大な子宮だ。何も外に見るべき景色がないと、不思議と頭の中に景色が広がる、酒の芳香がブラームスの交響曲のようにたわわに実った稲穂の畑や、プールに浮いて眺めた雲の往来、子供のころ虫取りにいった山スミレの斜面に導いてくれる。なんの意味もないのんびりした映像、大人のアロマテラピーだ。

日常奪われて逝く時間、何処か自分の人生に穴があってそこから密かに流れ出ていってしまってるとしか思えない時間、酒はそんな見逃してしまった、時間をひっくり返す砂時計だ。子供の頃、どんなに遊んでも遊んでも時間が余った時分の時間の流れを再現してくれる。昼間の自分はピッチャーの剛速球に振り回されて空振りをしても、ここではまるで自分が名バッターになったかのように、球が止まってみえ、縫い目まではっきり数えられるような気がする。時間がゆっくり、スローモーションで永遠に続くような感じ、遊んでも遊んでも、語っても語ってもまだ時間があるような気がして、外に出たら空が明るんでいたりする。穴蔵と酒の魔法だ。本来二次元で生活してた人間が3次元の時間の流れに適応する日がくるまで、私は時々暖かい階段を下へとゆっくり降りてゆく。

この薬はマトリックスとは違い、幾ばくかの対価を払い地上にでればすぐ後戻りできる。

今日も上空の世界へ。

Profile

ミヤケマイ・アーティスト
横浜生まれ。独学。2001年から作家活動を開始。

作品
渋谷 Bunkamuraギャラリー、 銀座 村越画廊、ラフォーレミュージアムといった画廊活動のみならず2005年からは水戸芸術館、上海多倫現代美術館等の美術館、アートフェアー東京、東美アートフェアーなどでの美術館、アートフェアーでの展示を中心にしている。多数装丁、企業とのコラボレーションも行っている。

公式サイト http://www.maimiyake.com/

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