本谷有希子
「未知なる飲み物」2006年3月1日
なんとなく飲んだことのないビールを頼んでみただけなのに、「エスプレッソ気分でどうぞ」っていきなり言われても困るのである。それは目の前のごはんを指さされて「おかずみたいな気分でどうぞ」と言われてるのとどう違うのか。父親に「今日からお父さんのこと、お母さんみたいな気分でどうぞ」って言われるようなもんじゃないのか。
そもそも劇団を主宰しているあたしの中のビールは、喜ぶだの喜ばないだの店員がいちいち変なかけ声を飛び交わせる居酒屋で、どうせ役者達が馬鹿みたいに飲むから瓶で十本とりあえずバーっと持って来るようなたぐいの飲み物であって、こんななんて言っていいかよく分からない形のグラスに注がれて隣に「サービスです」とクリームブリュレをそっと添えられるものではない。
ビールに添えられるべきは、「とにかくマヨネーズであえといたから」みたいな、おばちゃんの開き直りともとれる変な味のお通しだし、クリームブリュレにそっと添えていいのはたぶんアメリだけだ。
私はテーブルに置かれたスタウトという名のビールを見ながら、はたしてこれをどう飲んだものかと思案した。おそるおそる下の部分が正方形になっている変わったグラスを手にしてみると、ものすごく重い。馬鹿な。こんな重い必要がどこにあるっていうんだ。これがセレブスタイルなのか?戸惑っていると案の定、「その下の部分は外してお飲み下さい……」と店員に教えられる。あ、本当だ。取れるよ。くそ、だまされた。恥ずかしさにビールを喉に流し込む。
なんていうか、確かに味わったことのない風味だ。「実はエスプレッソです」と言われても今なら頷ける。いや、それはさすがに無理か。ビールはビールだ。でもやっぱりコクが違う。居酒屋もいいけど、こういうビールを知っている自分ってもしかしてちょっといけてるんじゃないかと思いつつ、さらにグラスを傾けた。大人の味だ。なんだか勢いで「その株、まとめて買い!」とか叫べそうな夜だ。気分がいい。