夏川草介
「In Japan」2011年9月28日
illustration by Baku Maeda
「難しいね、利益がない」
薄暗がりのバーの片隅に、ドイツ訛りの英語が答えた。
私はわずかに眉をひそめて、声の主を見やる。相手は百八十センチを越える長身を、粋なスリーピースに身を包んだ壮年のドイツ人だ。多様な人の行き交う東京でもちょっと目を引く秀麗な紳士だが、この静かなバーでは、無粋な目を向けてくる客もいない。
「
私はドイツ人の名を呼び、しばし間を置いてから静かに続けた。
「すでに新薬の開発は、単独の企業でどうにかできるレベルを越えています。あなたにとっても日本の製薬会社と手を組むのは損ではないはずだ」
「日本の技術がトップクラスだったのは、十年も前の話だよ、ドクター葛城」
フランクルは口元に小さな笑みを浮かべた。が、目は笑っていない。研究者として一流と言われるこの人物は、しかし交渉役としても超一流だという噂だ。
「今回の新薬学会、せっかく東京で開催したのに、日本からは何種類の提案があったかね?」
「2種類。ちなみにドイツからは3種で、アメリカは7種です」
ドイツだって格別進んでいるわけじゃない、そんな皮肉は、しかし彼には通じない。
「日本という国を、私は嫌いではない。しかしそれはあくまで観光の国としてだよ。物作りの分野では、もう日本の時代は終わったと、我々は考えているんだ」
フランクルの声が途切れたところで、丁度注文したビールが届いた。
美しいリュトングラスが卓上に並べば、ようやくドイツ人の目もとが緩む。そのまま互いのグラスを合わせて一口飲んだところで、ふいにフランクルは目を細めた。ちらりとグラスの中を眺め、さらに数口を飲んでから、ほうと吐息をつく。
「
マスターに向かって発したその問いに、私は傍らから静かに答えた。
「In Japan」
Japan?と驚いた顔をするドイツ人の前で、私もまたグラスを傾ける。それを卓上に戻した時には、先刻とは一味違う微笑に出くわした。
「ドクター葛城は黒ビールで商談を左右するつもりらしい」
「御冗談を。ただ、あなたは本物の味がわかる人物だと聞いていただけです」
超然と応じれば、フランクルは愉快げな笑声を上げた。
「OK、もう一度話を聞こうか、ドクター」
先ほどより深みを増した声がバーに響いた。