川上健一
「どこかで誰かが」2009年10月28日
illustration by Tomoko Okada
朝の通勤バスがいつもの長い下り坂にさしかかった。バスの乗客はまばらだった。顔見知りの人も何人かいた。誰もが無言だった。
「あの自転車の女の人、今朝もいないね」
と社会人一年生の娘がいった。
「もうどこかにいったんだろうね」
私は窓外の下り坂を見やって小さく吐息を洩らしてしまった。
その彼女の姿がぱったりと消えてからもう一週間になる。雨の日も風の日も、彼女は毎日元気に自転車で坂道を上ってきた。小柄な女の人でいつもディパックを背負っていた。ハツラツと坂道を上ってくる姿を見るのが好きだった。一日分の元気をもらった気分がした。姿が見えなくなり、どうしたのだろうとずっと気になっていたのだが、一週間も現れないというのはもうどこかにいってしまったに違いなかった。
その時だった。はるか下の角を曲がってポツンと丸い陰が現れた。
「あ、あの人!」
娘が思わずというように小さく叫んだ。
身を乗り出して運転手さんの背中越しに遠くを見つめた。
間違いなかった。彼女だった。一週間前と変わらぬ姿で、身体を丸めて素早く足を回転させている。車輪のギヤを大きくしているので回転が早くなるのだ。何人かの乗客も、彼女に気づいて身を乗り出した。
少ししてバスが彼女とすれ違った。すると、一番前に座っていたおばさんと女子高校生が小さく手を振った。娘と私も手を振った。何人かが手を振った。自転車の彼女が気づいてパッと顔を輝かせた。小さく手を振り返した。うれしそうだった。手を振り合ったのは初めてのことだった。素敵な笑顔だった。その笑顔を見ていたら、なぜか明日からも毎日彼女に会えそうな気がした。バスの中で手を振った人たちが、また会えてよかったとホッとしたように笑みを浮かべていた。
「誰かが誰かを待っている――。うん、私のことも誰かが待っているかも、だよね」
娘が独り言ちて幸せそうに笑った。