角田光代
「あの人がくるまでのあいだ」2017年3月27日
illustration by Kayako Kamiya
遅れる、ごめん。携帯のメールの文字を見て、今日という今日は許さない、と決意する。むしゃくしゃしながら、改札の向かいにある駅ビルに入った。ウインドウショッピングで時間をつぶすつもりだったけれど、二階に真新しいカフェを見つけた。駅ビル内とは思えないような雰囲気のいいカフェに、誘われるようにして足を踏み入れた。
カフェは空いていた。窓際の席に座る。大きなガラス窓の向こうで、町はうっすらと紺色だ。メニュウを開く。彼はいつも私に許されると思っている。それがしゃくに障る。見慣れない名前のビールがある。あれ、これはたしか、ディケンズの小説に出てくる人の名前じゃなかったっけ。ウェイターに、そのビールを頼んでみた。酔っぱらっちゃえ、と思う。だいたい、突然の遅刻は連続五回目だ。しばらくしてから、不思議なグラスに入った深い色のビールが運ばれてきた。
一口飲んで、びっくりした。今まで味わったどんなビールよりも、香り高い、まろやかな液体が喉をすべりおちる。喉が渇いていたけれど、ごくごく飲んでしまうにはあまりにももったいない味。ガラス窓からおもての景色を見おろしながら、私はそのビールをゆっくりと、まるでワインを味わうみたいに飲んだ。改札では、私みたいにだれかを待っている人も多い。私より若い女の子、スーツ姿の男の人。ビールを三分の一ほど飲むあいだに、彼らの待ち人があらわれる。人って、ただ会うだけであんなうれしそうな顔するんだなあ。ひょっとして、待てば待つだけ、人はうれしそうな顔で相手を迎えられるのかもしれない。いつのまにか、そんなことを思っている。変わったビールを飲んだんだよと、彼に会ったら教えてあげよう、なんて思っている。
二十分後、改札に彼があらわれる。私のグラスもちょうど空になった。立ち上がり、会計をする。この名前、小説のなかのどんな人の名前だったか、彼に訊けばきっと教えてくれる。駅ビルを出、改札に向かう。横断歩道のこちら側で、手をふるのに彼は気づかない。信号が青になり、やっと彼は私を見つける。顔いっぱいで笑う。きっと私も同じ顔で笑っている。
※本作は、角田光代さんに2004年に書き下ろしていただいたものに、2017年かみやかやこさんのイラストを新たに添えて再掲しています。2016年に書き下ろしていただいた「いつか旅立つときに」は本作から続くストーリーになっています。