穂高明
「もう一度、おめでとう」2008年11月28日
「おめでとうございます」と言った私の顔は、上手に笑っていなかったかもしれない。彼女から「他の大学で准教授のポストが見つかった」と打ち明けられたのだ。今までずっと一緒に研究を進めてきたのに、それはあまりに急な話だった。
帰りの電車はひどく混んでいた。中年のサラリーマンは、どんどん人を押しのけて謝りもせずに降りていく。さっきから誰かの傘の先が私の脛に当たっている。今日は最悪な一日だ。
駅から続く商店街の途中にあるバーのことは、ずっと気になっていた。雨上がりの湿った空気のせいかもしれない。今夜はその小さな看板が、やけに浮かび上がって見えたのだ。ひとりでバーに入るなんて・・・・・・。そう躊躇(ためら)いつつ思い切って階段を下りた。何だかいつもとは少しだけ違うことをしてみたかった。
カウンターのテーブルには小さなキャンドルが灯っている。差し出されたのは、珍しい三角形のグラスに入ったビール。苦いけれども、甘い、深みを帯びた味が舌の上に転がる。
彼女は厳しい先輩だ。実験でミスをすれば叱られるし、何度でもやり直しを要求される。でも最後は必ず「お疲れさま」と労ってくれる。思うようなデータが取れず、途中で投げ出してしまいそうだった時。大学を辞めようか本気で悩んだ時。そんな私をいつもそばで励ましてくれたのは彼女だった。またグラスに口を付ける。ちょっとぬるくなったビールは、とてもやさしい味がした。
結果を出すためには、自分のすべてを懸けて取り組まなければならないこと。そして、本当のやさしさは強さから生まれること。彼女はそれを私に教えてくれた大切な人だ。それなのに、心からお祝いしてあげることができなかった。・・・・・・そうか、私、寂しかったんだな。
半分空いたグラスにオレンジ色の炎が映っている。そのやわらかな灯りの向こうに彼女の笑顔が揺れる。凛としているけれども、やさしい、いつもの表情だ。これを飲み終えて店を出たら、すぐ電話を掛けてみよう。今ならきっと、ちゃんとした「おめでとう」が言えそうだから。