小川糸
「再会」2008年3月28日
「わりぃわりぃ」
浩介が、大またで歩きながら入ってくる。待ち合わせをしたバーのカウンターには私一人しかいなくて、慣れない私は、その端っこの席に座って待っていた。
社会人になって、何度目かの金曜日。よく磨かれた窓の向こうには、葉桜が揺れている。
薄暗い照明に、穏やかなBGM、品のいい客層。学生の頃たむろしていた居酒屋チェーン店とは、明らかに世界が違う。
「マスター、あの旨いビール」
浩介が、慣れた様子で変わった名前のビールを注文する。
「ガージェリー?」
私は、初めて耳にしたその名前を、呪文のように口ずさんだ。
彼は、学生時代からアルバイトをしていた大手広告代理店にそのまま就職した。私のように、ついこの間から社会人になりました、という心持ちとは、違うのかもしれない。
浩介と私は、幼馴染だ。小学校卒業と同時に、浩介が他県の中学に進学したので音信不通になっていたのだが、数年前の同窓会で再会した。それから一度だけ、ふたりでピクニックに出かけたことがある。
「社会人、おめでとう」
浩介が、表面に文字らしきものが描かれた三角形のグラスを持ち上げ、おいしそうにビールを飲む。
「このビール、日本で作られてんだけど、本場よりいい味してるんだよ」
早く飲んでみな、という表情で私を見るので、私もきれいなグラスを持ち上げ、ひとくち飲む。
柔らかい泡に包まれるようにして、まろやかな液体が喉の奥に流れ込む。さっきまで、似合わないんじゃないかとずっと気になっていたスーツや化粧やパンプスの居心地の悪さが、スーッと、泡と共に消えていく。
あの頃の私達は、学校帰りにサイダーを飲むのが精一杯だったのに。
バーテンダーが、さりげなくチョコレートを出してくれる。
私はそのチョコレートを口に含んでから、グラスに手を伸ばし、残りのビールを飲み干す。「甘い」と「苦い」が口の中で混ざって、体中に広がっていく。今夜こそ、ずっと言えなかった一言を、伝えようと思う。