薬丸岳
「おめでとう」の代わり2020年8月3日
illustration by aka
重厚なドアを開けて中に促すと、こちらに顔を向けた父が眉根を寄せた。
薄暗い店内には立派な一枚板のカウンターが鎮座し、その奥の棚にはたくさんのボトルが並んでいる。父がいつも飲みに行く近所の焼鳥屋とは趣が違い過ぎて戸惑っているようだ。
母からの電話で今日東京に来ることを知り、初めて父の携帯に電話をかけた。仕事が終わったら会わないかと言って、東京駅で待ち合わせをしてこの店に連れてきた。
カウンターに並んで座ると、「とりあえず生ビール」と言いそうになる父を制して、「例のものをふたつお願いします」とバーテンダーに頼んだ。
初めて父と酒を飲む。今年六十七歳になる父は実家のある岐阜県関市で鍛冶職人としてひとりで鋏を作っている。ひとりっ子の自分に跡を継がせたかったのだろうが、高校に入った頃に「こんなしんどいばかりで先細りの仕事をするつもりはない」ときつい言葉で宣言した。父は何も言い返さなかったが、それから親子の会話は極端に減ってしまったと思う。東京の大学に合格したときも、大手の広告代理店に就職が決まったときも、父は「おめでとう」を言ってくれなかった。ただ、母によると、近所の人たちには自慢げに話していたようで、まったく頑固者で素直じゃないんだからと苦笑していた。
バーテンダーが出したグラスを見て、「これは何だ?」と父が小首をかしげた。この特別な酒はリュトンという底の尖ったグラスで供される。
「ガージェリーっていうビールだよ。とりあえず乾杯しよう」
父と軽くグラスを合わせて一口飲むと、目の前に置いてあるボトルに指を向けた。「ラベルにあるこのマークは、ケルト神話に出てくるゴブヌという鍛冶神をかたどってるんだ」
「ゴブヌ? 鍛冶神?」と訊き返しながら父がラベルを見つめる。
「そう……鍛冶の神様。親父の仕事の神様さ。だから今日、親父に飲ませたかった」
父は今日、長年の功績が認められて黄綬褒章を受章した。素直に「おめでとう」と言えないのは父譲りの頑固さなんだろう。