寺地はるな
「みつはひみつのみつ」2018年12月9日
illustration by Yusaku Mitsuie
お待たせ、と目の前に立った女の人がミツさんだと、最初わからなかった。あんまりきれいだったから。いきましょうか、と雲の上を散歩するように、足音も立てずに歩き出す。会社には一度も着てきたことのない黒いドレス。歩きかたまで、別人みたい。
私の先輩であるミツさんは、すこぶるつきに地味な人だ。化粧っ気がなく、毎日手作りのお弁当を持参する。「質素倹約のミツ」という、そのままずばりな異名を持つ。
「何を楽しみに生きてんのかね」と陰口を叩く人もいるし、実は私もそう思っていた。思うだけでなく、がまんできずに本人に訊ねてしまった。不躾すぎる質問に、ミツさんは怒ることもなく「では、マリモさんにだけ特別に教えてあげましょう」と答えた。
特に親しくもない私達が土曜日の夜に待ち合わせをしたのは、そういうわけなのだ。
ミツさんが連れて行ってくれたお店のビールは、ふしぎな形をしていた。リュトンというらしい。底が尖ったグラスと四角い台座。グラスには謎の文字が書かれている。
「ルーン文字なのです」
るーんもじ。ミツさんの言葉を復唱した私は、たぶんぽかんとした顔をしていたのだと思う。つやつやの唇の端に白い泡をつけたミツさんがおかしそうに笑った。
「ミツさんは、どうして会社にはお化粧してこないのですか」
「会社は仕事をするところだから」まぶたをきらきらさせたミツさんが即答する。
「じゃ、このお店は?」
「ひそやかに人生を楽しむところ、です」
またもや、即答だった。ひそやかな楽しみ。そんなものを持っているなんて、ものすごく贅沢で素敵なことなんじゃないだろうか。がぜん、ミツさんに興味が湧いてくる。
「ミツさんには、まだまだ秘密がいっぱいありそうですよね」
ミツは秘密のミツ。などと、くだらないことを言ってうふうふと笑う私の顔を、ミツさんが「あら、もう酔ったんですか?」とからかうような表情でのぞきこんだ。