小松エメル
「ゴブヌの恩恵」2014年3月3日
illustration by GONGON
「やあ、また来たね」
そう言って、ひらりと手を振る相手を見た瞬間、私は目を瞬かせた。薄暗いバーカウンターの中央に陣取った彼は、己の左隣の席をぽんぽんと叩く。戸口で固まっていた私は、やがて苦笑して、彼の許へと近づいていった。
「きみとここで会うのは何度目になるだろう? ぼくは数え切れないほど来ているから、忘れちゃったなあ」
彼の言に、私は頷くことができなかった。今、私は確かにはじめて訪れた店の戸を開けたのだ。しかし、中に入ると、そこはこの前訪れた店だった。いや、この前どころか、この前の前も、この前の前の前も──。
「さあ、乾杯しよう」
彼の声で我に返った私は、慌てて盃を持ち上げた。乾杯どころではない。今日こそはこの店の謎を解くのだ──そう思いつつも、彼の明朗な声に従ってしまう。不思議なものだと思う。彼の声も、この盃も──。
私の手中にあるのは、奇妙な形の硝子だ。獣の角を模した三角錐の盃を持ち上げると、立方体の台座の底に端正な横顔の人物が現れる。象られているのは、「吞めば不老不死になる」というエールを醸造したケルトの神だ。
「再会に乾杯!」
歌うように言った彼は、私の盃に己のそれを軽く合わせた。そして、ごくり、と一口だけ呑み、ふうと淡い息を吐く。この後続く言葉は、決まっている。
「ゴブヌに感謝しよう」
先んじて言ってみると、彼は目を見開き、「一本取られたな」と笑い出した。少々得意な気持ちになりつつ、私も盃に口をつけた。濃厚な味わいが口の中に広がり、やがて臓腑に染み渡る。酒に弱い私はすぐに、宙を浮いているような、良い心地になるのだ。
「ゴブヌが催した宴には、彼が造ったあの美味い酒と、いくら食べても減らないごちそうが出てきたのさ。きみにも味わわせてあげたかったなあ。そうしたら、きみといつまでもこうして素晴らしい時間を過ごせるのに」
彼が語る昔話を聞くために、私はそっと目を閉じた。そうしていると、己まで悠久の時を生きている者のような気がしてきて、ふふふと笑いがこみ上げてくる。
やがて目を開いた時、私はいつものように見知らぬバーのカウンター席に座っていた。
「……いくらでも時間があるくせに、あなたのお仲間はせっかちだ。また挨拶もせずに帰ってしまったよ」
右隣にぽつんと置き忘れられた、盃の底のゴブヌを眺めつつ、私は独り言ちた。