夢野寧子
君越しに琥珀2025年7月11日

illustration by Genie Ink
「珈琲は苦いから飲めないんだけど、珈琲の香り自体は好きなんだよね」
あなたがそう言ったのは、まだ出会って間もない頃。会社の同期数人で訪れたチェーン店の居酒屋で、「ビールは苦いのに飲めるんだ」と指摘すると、「ビールは苦いけど、甘くもあるでしょ」と返ってきて、なるほど、と思ったのを覚えている。
ちなみに私はビールの味自体は好きだが、量はあまり飲める方じゃない。大抵一杯も飲めば真っ赤になってしまうので、飲み放題では全く元が取れないし、割り勘時には飲めない分を補うためにひたすら食に走る。
「強くないからあんまり飲めないんだけど、ビールの味自体は好きなんだよね」
私がそう言ったとき、あなたは山盛りの生クリームがのったココアを、私は珈琲を飲んでいた。あなたの家の近くの、カフェでのことだった。あのときあなたは私の注文した珈琲の香りを堪能しながら、「なら、美味しいご飯と一緒に美味しいビールを一杯飲みに行こうよ」と言った。
そうして私達はここに通うようになった。数カ月に一度、サルシッチャやマルゲリータを食べながら、精巧な円錐のグラスに注がれた濃厚なスタウトを楽しむ。尤もあなたは私と違って飲める口なので、一杯では我慢できないことがままある。まだ中身が半分ほど残った私のグラスと、空になった自分のグラスを見比べたあと、「よかったら、お代わりしてもいいかな」とあなたは少し恥ずかしそうに言う。その顔を見たいばかりに、仕方ないな、という顔を装うのだけど、実を言うと私はお代わりすることに全く反対していない。何故ならあなたが二杯目に頼むのは、いつもエステラだと決まっているから。
新しいグラスが運ばれてくると、あなたは顔を綻ばせる。深い味わいのスタウトは、初めて口にした瞬間から私のお気に入りだったが、色が濃すぎてグラスの向こうが見えないのが唯一難点だった。あなたの手の中の琥珀越しに、あなたの唇をじっと見すえたまま、私は自分の珈琲色のビールに口をつける。琥珀色のエステラが揺らめき、透明なリュトン・グラスにルーン文字が白く浮かび上がって、あなたの喉が柔らかく波打つ。甘い香りと上質な苦みが口いっぱいに広がる。あなたが私越しに珈琲を味わっているように、私もまたあなた越しに二種類のビールを同時に味わっていることは、まだ当分の間秘密にしておこうと思う。